夜3時の愚痴。
夜中2時をまわったのになかなか寝付けず。
唐突に言葉が溢れてきて
仕方なく
しんしんと雪の降る中、ちゃんちゃんこを羽織って
ペンを取ることに。
普段は「綺麗」な文章しかここに打ち込まないけど
今日は
夜中の3時から独り言。
こんな文章を、留学して私大に通ってる私が書いても、
陰気臭く青臭いだけだろう。
それでも、誰かに、叫んで受け止めてもらいたい。
そんな気持ちで、汚い気持ちでいっぱいなのである。
アラスカでぬくぬくしてる穀潰しは、
何かでいっぱいなのである。
お金の話。
「そりゃ高くても、いい服着た方がいいよ」
「少しくらい高くても、いいもの食べたほうがいいよ」
「少しくらい稼ぎたくても、両立できないバイトはやめたほうがいいよ」
たくさん忠告してくれるひとがいる。
物知り顔で、
ある顔は優しく
ある顔は暖かく
ある顔は心配そうに
言ってくれる人がいる。
でも今の私は歪んでいる。
こう思ってしまうから。
その人たちは知らないのだ。
その人たちは知らないのだ。
いい服を着たくとも、
体にいいもの食べたくても、
勉強と両立したくても、
できない人間がいることを知らないのだ。
その人たちは知らないのだ。
子どもの貧困が
目の前の子どもに当てはまっていることを。
その人たちは知らないのだ。
あなたが寄付する尊い姿が、
誰かを傷つけていることを。
その人たちは何も知らないのだ。
ああ、私は歪んでいる。
そりゃ誰でも、体にいいものが食べたいに決まってる。
体にいい仕事をしたいに決まってる。
たらふく食べて、
新品の柔らかい服を着て、
足の形に合う靴を履いて、
社会科見学くらいの気持ちで働きたいに決まってる。
誰だってそうに決まってる。
何も好き好んで古着屋に行ったわけじゃない。
好き好んで賞味期限前の食べ物を買ってたわけでも、
好きで毎日パートに行ってたわけでもない。
言わないだけで、隠してるのだ。
人にはいえない苦しみを。
頑張ってるなんて、言いふらさないだけなのだ。
言ったら愚痴になるから。
言ったら同情を買ってるだけになるから。
ああ、歪んでいる。
「貧乏は人を変えるんだ」
おしんの言葉が胸に刺さって、深く、抜けない。
monopolyや人生ゲームをやってたらわかるだろう。
貧乏は人を変えるのだ。
どんなに苦労して手に入れた地位も富も、
いっときの救済のために簡単に手放せる。
いや、手放すしかないと思わせる。
かたやお金があるときには、
途端に声色を変えた女神になれる。
優しくなれる。見返りなんて求めずに、人に施せる。
清らかで、美しい人になれる。
借金取りの怖さを知らなければ、
貯金の底が尽きる怖さを知らなければ、
家族の信頼が揺らぐ怖さを知らなければ、
その全てを隠して笑う、あの痛みの怖さを知らなければ、
もっと、もっと優しく、あたたかい人間になれたのだろうか。
家のない人に惜しみなく持ち金を与え、
街頭に立つボランティアの箱に硬貨を入れ、
顔も知らない世界の裏側の少女のために泣き、
子どもの貧困について声高に演説することが
できたのだろうか。
もっと
ましな人間になれたのだろうか。
いや、きっとなれない。
きっと同じことで、人を羨み、妬み、そして言い訳がましく
慰めの言葉をせがんだだろう。
全て言い訳なのだ。
全て、自分の人生から逃げる言い訳なのだ。
全て、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げる台本に過ぎないのだから。
私は、自分自身の人生に与えられた「幸い」と「チャンス」から
逃げているだけなのだ。
「人生は中性。良しも悪しも、己次第」と言う言葉が
怖いだけなのだ。
できないんじゃなくて、やらないだけ。
そう思うことが怖いだけなのだ。
自分にないものを持っていたと、思いたいだけなのだ。
人生が気づかせようとしている大切なことに、
気づきたくないだけなのだ。
ただ自分が、怖いだけなのだ。
心から大好きな家族と、
走り回れる身体と、
あったかい友人がいるなら、それでいいのに。
自分を不幸だとか、そんなことは
微塵にも思ったことはない。
心から愛する家族と友人がいるから、
恵まれ過ぎていると思っている。
でも、
じゃあ、私はどうしたらいいのか。
このまま考えることをやめたら、
私はただ自分に酔っているだけの青二才。
世の中で苦しんでるのは自分だけだと思い込んでる
御都合主義者。
別に自分はおしんのように、
米俵1俵のために売られたわけじゃない。
アラスカという未知の国で、
家族の貯金を使いながら、
ぬくぬくと穀潰しをしてるだけ。
頑張ってるとか苦しんでるとか、言う資格も言ってもらう資格もない。
だけど私はどう生きたいのか。
今はまだわからないのだ。
今はまだわからないのだ。
わからないから、学びたいのだ。
わからないから、たくさんの人に会いたいのだ。
わからないけど、美しくありたいのだ。
わからないけど、清くありたいのだ。
わからないけど、挑戦したいのだ。
わからないけど、生きていきたいのだ。
わからないけど、強く生きていきたいのだ。
私はそれでも、強くありたい。
昨日の自分よりも、強くありたい。
強いってなんだろう。
高校1年の時。
東京都から全額援助を受けて、
数え切れない人々の温かさを毎日心で感じながら、
強さとは何か
オーストラリアで出した答えは
芯のある人間であることだった。
強いとはすなわち、
どんな状況に置かれても、曲がらず、折れない、
一本の芯を心に持つことだと
16歳の私はそう答えた。
そしてその芯とは、
優しさであると答えた。どんな人にも、まっすぐ目を向けられる優しさだと。
今はもう、そんなもの
かけらもないけれど。
だから今、
アラスカという大いなる土地で、
もう一度この問いを
自分に投げかけようと思う。
強いとは何か。
強く生きるとは、何なのか。
恩知らずで身の程知らずの、
夜3時の、
私の愚痴。
それでも誰かに、
聞いてもらいたかったのだ。たぶん。